力が抜けて楽になると【自分】はぐんぐん出てきちゃう!

学ぶ姿勢は素晴らしいこと。
だけれど・・・

ときどき、
学びに埋もれた言葉、表情、動きを感じてしまうと

【本当の姿が見えないな】って
【この人の素はどこに埋もれたの?】って思っちゃう。

子どもよりも 大人に多い。
  

 
わたしの子は3人。
どの子を産んだ時も「元気で生まれきてほしい」と心底願い、
それが当たり前ではないことを知っていた
幼少時から病人に囲まれて育ったわたしは

わたしの元に来てくれた子たちを
わたし色に染めてくんじゃなく、

真っ白で生まれ来たからには
この子の色を創ってほしいし、
その色を伸ばしてあげたいと思ってきた。

でも、側にいるからさ
イヤでも自分に似たりするんだよねぇ

わたしの価値観を押し付けないよう努めてきた・・・と思うのだけど
これもまた、わたしの価値観。

とほほほほ。
 

ただひとつ言うなら
誰の言葉も、
世の中で良いとされることも
知って学ぶことはあっても

それらを
自分の言葉で理解して腑に落とせたら
自分の色になってくんじゃないかって、

その子の色を
伸ばしていくんじゃないかって思ってる。
 

そんなわたしが
学びに埋もれるんじゃなく、学びを素養としているか?
の見極めとして

  • その人が心から楽になっているか
  • 肩の力がフッと抜けてるか
  • 子どもの頃のような無邪気さが在るか

というところだけは、ものすごく見てきたし、
しつこいくらい今も感じていると思う。

 

力が抜けて楽になると【自分】はぐんぐん出てきちゃう
   

   
学びを自分の腑に落とすのではなく、学びを「使える」と採用する人ほど
言葉、表情、動きが「テクニック」、もしくは「誰だか分からない人」になり
【自分】は埋もれ、隠れてしまう。

どんなにSNSで 充実な投稿をしていたとしても
言葉、表情、動きに隠れたその人そのものの叫び、
人として生まれきた魂の訴えという【足跡】をわたしは感じ取ってしまう。。。

そのような時、子ども達を思うような気持ちから見ると
なんだか切なくなる、、、んだよね。

そのために生まれきたの?っていうような「切なさ」が残る。
それはわたしの勝手な思いだと理解しているんだけれども。

人が離れるときというのは、
そのように誰かを「せつなく」させてしまっているのかも
とわたしは感じている。

 

この世に、同じタイミングで生き、出逢えているからこそ
わたしは「学んだあなた」を知りたいんじゃなく

「ただのあなた」と深めたい。

まっさらで生まれきたときって、すごいんだよーーー!
マジで眩しい!!!!!

子ども達が生まれたとき、「存在そのもの」の強さをものすごく感じたし、
なんて素晴らしいんだろうって、
命の重みってこういういことなんだ!って教えられた。

だから、
なぜ人は、わざわざ「存在そのもの」を埋もらせちゃうんだろう?
って思ってもきたし、その背景を探してもきた。

足跡は必ずあるから。
そして、楽になる方法をわたしはずっと探している。
  

長い間、子ども達と過ごせる「子育て」にわたしが夢中になったのは
【存在そのもの】と分かち合える時間だったから。
大人になった今も変わらないけれど!

学びつくした、どこの誰だかよく分からなくなる人とは
なかなか深められないんです、、、よ、、、はい。。。ごめんなさい。

というか、知ることや理解はできても、
すごく頭が働いて、肩に力が入り、一緒にいることが難しくなっちゃって・・・
(単細胞で、切なくなるとしんどくて、家に帰るとドッと疲れちゃうんです。)

わたしにとってのご縁を深めるとは
「自分という唯一無二の存在」が
「あなたという唯一無二の存在」と対話し、交わり合うことであり、
それらが自分の奥で腑に落ちることを、体験や学びと言っています。

だから日常の中に学びはたくさんある!

学びとは、教えられるものでも、評価されるものでもなく、
それらを学びとするのなら、わたしは本を読んでたらいいと思っている。
  

わたしは【存在そのもの】が見たいし、知りたいし、感じたいし、
そこにしか興味がわかない人なんだと、最近つくづく感じてます。

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