終わりを美しく

長い長い時間をかけて、最近分かったことがある。

わたしは小さな頃からずっと「お母さん」になりたくて
夢は?と聞かれても「お母さん」。
それ以外浮かぶことがなかった。

だから、正直 どこに就職したいか?という希望もなく
勧められるまま地元の企業に就職し、結婚を機に大阪に来た。

長男を産んだ時は、お母さんになれたことで興奮して眠れず、
育児も まわりが言うような「しんどさ」を感じることは少なく
子どもを心配する余り、愛情が過剰になるということも ほぼなく。

とにかく3人の生命体が愛しくて、面白くて。
 

自分とは違う『個人』

お気づきだろうが、わたしは「生命体」という言葉を使った。
子どもだし、愛しいし、自分の命を惜しみなく差し出すことは当たり前にできる。

のだが、
自分とは違う『個人』であるということを、生まれたときからハッキリと感じているし、近くにいすぎて依存してしまうということはないとも言える。

『授かりもの』とはよく言ったもので、一人前になるまでこちらで預かるけれど、こちらが一方的に育てるのではなく、互いに育ち合う機会まで、命とともに授かったと感じている。

ある意味熱くなるけれど、ある意味冷静でいられる。
そして、「一緒にいれる時間」は限られたものだとずっとずっと思ってきた。

だからわたしは、できる限り子どもと一緒にいたかったし、いろんなことを共有してきたし、たくさんのことを話したし、触れられる間は超ベタベタしてきた。

一心同体的ではある。
身近で大切な人だから、自分と分けることができないような場合もある。

でもそれは、愛からの気持ちで。
つまり、「互いが重いと感じない」ということを大切にしてきた。

ここで大切なのは「情」を入れないこと。

関係性が悪くなったり、親子でギクシャクするのは、「情」の入れすぎが原因であるとわたしは思っている。どちらかの強い感情、こうすべきという押し付け、情け、可哀想・助けたいという気持ちが強すぎるとバランスは乱れる。

それぞれの生命は、それぞれに必要な機会が訪れるようになっているが、情でバランスを乱してしまうということは、その人に訪れる機会をも奪ってしまう。

わたしは幼少から あまりにも病や死と向き合ってきて、情や同情をイヤというほど見てきたし、押し付けられてもきたし、それが身近な人になればなるほど 互いを辛くさせることを知っている。

だから「情」は、不快のないようにフェードアウト、もしくはスルーしているし、人によく言われるのは「潔い」ということ。女性は共感の生き物だから、わたしは「冷たい」と表現されることもあるが、それも承知で「情」とは交わらないようにしている。たまにやっちゃってしんどくなるのだけども、、、

「潔さ」に関してはものすごく覚悟を決めて行っている。。。というか、自分の限り目一杯愛して、愛されて、それでも離れることが訪れるのならば、その流れを受け入れて、そこに「情」を入れずに自分の生きる道を真っ直ぐに進む。

それが執着にも未練にもならないことだと知っているし、念を残さない。
それまでは目一杯、しつこいくらいやりきるけれど。

母はある日突然亡くなったから、わたしにとっては目一杯やりきれなかったことになり、後悔は山ほど残ったけれど、そのときにわたしは『限り在る時間』と『タイミング』ということも学ばされた。

母は念ひとつ残さずに逝ったのだから、生き様を心から尊敬もした。

わたしにとっては突然だったけど
母にとっては、愛しきったし、やりきったんだよね。
それも教えられた。

その頃から特に、限られた時間ということを意識して過ごすようになった。そうすると、見えてくるものも違った。

今、目の前にいる人の「本当に大切なこと」と「大切だと思い込みたいこと」の違いも大体分かるけれど、分かることは大したことじゃない。むしろそちらにだけ気を取られていたら、目の前の本人を見ていないことにもなり得る。その人がそう見えたとしても、今感じていることや今の体験、機会がその人には必要で、それらを通して何を感じるか?の方が大切。

自分で感じ、自分で気づかなければ意味がない。その人自身の人生だもの。
わたしも自分の体験を通して感じてきたことがあるように。

必要なことは必要なときに必要な分だけ起こる。

子どもへの愛も同じ考え方で
自分とは違う『個人』であるということ。
「情」で割り込まないこと、その人の大切な人生に。

関わるなら、愛だよ、愛。(と自分に言ってきた)

そしていつかは訪れる別れのときには「潔さ」を発動する。
そうしたら、今度は違う関係性で結ばれる。
だからさ、失う関係性など実はないんだよね。
パートナーシップも他の人間関係も。

「情」を発動してしまったら・・・そのあとはドロドロだろうけれどw
それも必要で起こっているということで。
   

長い長い時間をかけて最近分かったこと

わたしが「お母さん」になりたかったのは、
所謂みんながみる夢と同じで、「お母さん」という職業?役割?関係性を育むこと?をやりたかったんだということ。

これまで恋愛相談を受けてきて、それが仕事だと思ってきたけれど
わたしのメインの仕事は「お母さん」で、受けてきた恋愛相談は副業だったんだと今は感じます。(長い間兼業だったんだなぁ)

不思議だけどそれがいちばんしっくりくる・・・

「お母さん」というなりたかった夢は、長い時間 叶い続けました。
そして最近、終わったということを 知りました・・・

終わりを知ったけれど、わたしが子ども達の「お母さん」であることは一生続く訳で、終わったということは「ひとつの生命体」が自分の力で生きることができる時期がきたということ=保護はいらない ということ。

いちばん下の娘は高校生。
まだ養うという立場はあるけれど、もう立派です!
口はわたしの何倍も達者w

要は、みんなが『個』の生命体であり、羽ばたけるということ。
わたしは 自分の夢を見つめます。
 

終わりを美しく

以前、「終わりを美しく」という言葉を聞きました。
始まるときに終わりを意識しておく、です。

それは、「意図する」こと。
くもりのない純粋な意図(種)を大地に埋める。

「お母さん」としての夢は叶って終えましたが
実質的な「お母さん」の役割はもう少しあるようで
何故か最近子ども達が
「母さん!まだ高校生おるでー。忘れんといてや。」と言う。。。

何かを察知しておるのー。つながってる!

なので
子ども達と過ごせたことの感謝を、
すべて子ども達に渡して 美しく終えようと思っています。

わたしなりに目一杯。

 

寄り添ってはいても 《離れる力》は時に愛に必要

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